2020年1月31日金曜日

教皇フランシスコ日本訪問を追って   (4 )


教皇フランシスコ日本訪問を追って   (4 )  広島

2019/11/24D

LIVE】平和のための集い/Meeting for Peace【公式】


【ノーカット】ローマ教皇 広島で核兵器を強く批判(19/11/24)


平和記念公園にて

20191124日、広島


教皇のメッセージ

 「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編1228)。
 あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、わたしたちはあなたに目を向けます。死といのち、崩壊と再生、苦しみといつくしみの交差するこの場所から。
 ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、なかには、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。
 この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びたかたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んでこられたからです。
 わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、じっと祈るためです。とくに、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。
 わたしはつつしんで、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。
 確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています。それは、わたしがすでに2年前に述べたとおりです。これについて、わたしたちは裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、国と国の間で何の行動も起こさなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪のスピーチで、あのだれもが知る偽りの行為を正当化しておきながら、どうして平和について話せるでしょうか。
 平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。
 真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を求めるため、他者に何かを強いることが正当化されてよいはずはありません。その逆に、差の存在を認めることは、いっそうの責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。
 実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965104日)」10)。武力の論理に屈して対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。
 思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。
 だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。
 神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、心から声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編8511-12)。
 主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!
 「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編1228)。


教皇フランシスコ日本訪問を追って   (3 ) 




教皇フランシスコ日本訪問を追って   (3 )  長崎

2019/11/24C


 王であるキリストの祭日のミサ 

長崎県営球場長崎ビックNスタジアム 

    

教皇のメッセージ

「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ2342

 典礼暦最後の主日の今日、イエスとともに十字架につけられ、イエスが王だと気づき、そう宣言した犯罪人の声に、わたしたちも声を合わせます。栄光と勝利には程遠いそのときに、嘲笑と侮辱の声高な叫びの中で、あの盗人は声を上げ、信仰を宣言しました。それは、イエスが聞いた最後のことばであり、御父にご自分をゆだねる前、イエスは最後にいいました。「はっきりいっておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ2343)。盗人の後ろ暗い過去は、一瞬にして新たな意味を得たかのようです。すなわち、主の苦悶にしっかりと寄 り添い、いつでもどこにおいても救いを差し出すという主の生き方を確かめるものとしたのです。カルワリオ、それは無秩序と不正義の場、無力と無理解が相まみえ、罪なき者の死の前で、いつも茶化している者たちの、無関心で自己を正当化する、ささやきと陰口が響く場です。カルワリオ、この語は、この悔い改めた盗人の姿勢によって、全人類にとっての希望という語に変わるのです。苦しむ罪なき人への自分自身を救えというあざけりやわめき声は、決めぜりふにはならず、むしろ、歴史を作るまことの形として、心を動かされるに任せ、いつくしみによって決断する者たちの声を呼び起こすのです。
 今日ここで、わたしたちの信仰と約束を新たにしたいと思います。あの悔い改めた盗人と同じく、わたしたちは 、失敗、罪、限界ばかりの人生をよく分かっています。けれどもそれが、わたしたちの現在と未来を既定し、決定づけるものであってほしくありません。わたしたちは、「自分自身を救ってみろ」という軽々しい無関心の声で、面倒を避ける空気に染まりがちなことを知っています。多くの罪なき者の苦しみを、ともに背負うことの大切さを忘れてしまうことも少なくありません。この国は、人間が手にしうる壊滅的な力を経験した数少ない国の一つです。ですからわたしたちは、悔い改めた盗人と同じように、苦しむ罪なきかた、主イエスを弁護し仕えるために、声を上げ、信仰を表明する瞬間を生きたいのです。主の苦しみに寄り添い、その孤独と放棄を支えたいと思います。そして今一度、救いそのものである、御父がわたしたち皆に届けようとするあのことばを聞きましょう。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
 救いと確信――。それは、聖パウロ三木と同志殉教者、そしてあなたがたの霊的遺産に刻まれた無数の殉教者、彼らがそのいのちをもって勇猛にあかししてきたものです。わたしたちは彼らの足跡に従い、その一歩一歩を同じように、勇気を携えて歩みたいと思います。十字架上のキリストから与えられ、渡され、約束された愛こそが、あらゆるたぐいの憎しみ、利己心、嘲笑、言い逃れを打ち破るのです。そこに、よい行動や選択を前にして身をすくませる、無意味な悲観主義や、感覚を鈍らせる物的豊かさに、ことごとく勝利する力があります。第二バチカン公会議は、そのことを思い出させてくれました。真理から遠いのは、この世には永遠の都はないといって、来る都を探し求めているつもりで地上での務めをないがしろにし、注意を怠る人です。まさに、告白する同じ信仰で、神に呼ばれた召し出しの崇高さを示し、それが透けて見えるほどにすべきなのです(第2バチカン 公会議『現代世界憲章』43参照)。
 わたしたちの信仰は、生きる者たちの神への信仰なのです。キリストは生きておられ、わたしたちの間で働かれ、わたしたち皆をいのちの充満へと導いておられます。キリストは生きておられ、わたしたちに生きる者であってほしいと願っておられるのです。キリストはわたしたちの希望です(使徒的勧告『キリストは生きている』1参照)。わたしたちは毎日こう祈っています。主よ、み国が来ますように。こう祈りながら、自分の生活と活動が、賛美となるよう願っています。宣教する弟子としての使命が、来るべきものの証言者や使者となることならば、わたしたちは、悪や悪行に身を任せてはいられません。反対にその使命は、神の国のパン種になるよう駆り立てるのです。家庭、職場、社会、どこであれ、置かれた場所でパン種となるよう駆り立てるのです。聖霊が人々の間に希望の風として吹き続けるための、小さな通気口となることです。天の国は、わたしたち皆の共通の目的地です。それは、将来のためだけの目標ではありません。それを請い願い、今日からそれを生きるのです。病気や障害のある人、高齢者や見捨てられた人たち、難民や外国からの労働者、彼らを取り囲んで大抵は黙らせる無関心の脇で、今日それを生きるのです。彼らは皆、わたしたちの王、キリストの生きる秘跡なのです(マタイ2531-46参照)。なぜなら「もしわたしたちが本当にキリストの観想によって出発したのであれば、あのかたがご自分を重ねたいと望んだ人たちの顔に、あのかたの姿を見いださなければならない」(聖ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『新千年期の初めに』49)からです。
 あの日、カルワリオでは、多くの人が口を閉ざしていました。他の大勢は嘲笑し、盗人の声だけがそれに逆らい、苦しむ罪なきかたを擁護できたのです。それは、勇気ある信仰宣言です。わたしたち一人ひとりが決断することです。沈黙か、嘲笑か、あるいは告げ知らせるか。親愛なる兄弟姉妹の皆さん。長崎はその魂に、いやしがたい傷を負っています。その傷は、多くの罪なき者の、筆舌に尽くしがたい苦しみによるしるしです。これまでの戦争によって踏みにじられた犠牲者たちは、さまざまな場所で勃発している第3次世界大戦によって、今日もなお苦しんでいます。今ここで、一つの祈りとして、わたしたちも声を上げましょう。今日、この恐ろしい罪を、身をもって苦しんでいるすべての人のために。そして、あの悔い改めた盗人のように、黙りも嘲笑もせず、むしろ、自ら声を上げ、真理と正義、聖性と恵み、愛と平和のみ国を告げ知らせる者が、もっともっと増えるよう願いましょう。



教皇フランシスコ日本訪問を追って (2 )





2019/11/24 B


日本二十六聖人殉教者への表敬  西坂公園・殉教の記念碑にて

教皇のメッセージ

愛する兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。
 わたしはこの瞬間を待ちわびていました。わたしは一巡礼者として祈るため、信仰を確かめるため、また自らのあかしと献身で道を示すこの兄弟たちの信仰に強められるために来ました。歓迎に心から感謝いたします。
 この聖地にいると、はるか昔に殉教したキリスト者の姿と名が浮かんできます。159725日に殉教したパウロ三木と同志殉教者をはじめ、その苦しみと死によってこの地を聖なる地とした、あまたの殉教者です。
 しかしながら、この聖地は死についてよりも、いのちの勝利について語りかけます。聖ヨハネ・パウロ2世はこの地を、殉教者の丘としてだけでなく、まことの真福八端の山と考えました。自己中心、安穏、虚栄から解き放たれ、聖霊に満たされた人々のあかしに触れることができる場です(使徒的勧告『喜びに喜べ』65参照)。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです。
 ここは何よりも復活を告げる場所です。襲いくるあらゆる試練の中でも、最後は死ではなく、いのちに至ると宣言しているからです。わたしたちは死ではなく、完全な神的いのちに向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです。確かにここには、死と殉教の闇があります。ですが同時に、復活の光も告げ知らされています。殉教者の血は、イエス・キリストがすべての人に、わたしたち皆に与えたいと望む、新しいいのちの種となりました。そのあかしは、宣教する弟子として生きるわたしたちの信仰を強め、献身と決意を新たにします。日々黙々と務める働きによる「殉教」を通して、すべてのいのち、とくにもっとも助けを必要としている人を保護し守る文化のために働く弟子として。
 わたしが殉教者にささげられた記念碑の前まで来たのは、このような聖なる人々と会うためです。「地の果て」に生まれた若いイエズス会士の謙虚さに心を重ね、最初の宣教師と日本の殉教者の歴史に、霊感と刷新の深い泉を見いだしたかったのです。すべてをささげた彼の愛を忘れないようにしましょう。記念館に丁重に納められ尊ばれる過去の手柄の輝かしい遺物にとどまるのではなく、その愛が、福音宣教の熱い思いを刷新し絶えることなく燃え立たせる、この地におけるすべての使徒的精神の、生き生きとした記憶と燃える熱意になりますように。今の日本にある教会が、すべての困難と展望を含め、十字架の上から放たれた聖パウロ三木のメッセージに日々耳を傾け、道、真理、いのち(ヨハネ146参照)である福音の喜びと美をすべての人と分かち合うよう招かれていることを感じますように。わたしたちに重くのしかかり、謙遜に、自由に、大胆に、思いやりをもって歩むことを妨げるものから、日々解き放たれますように。
 兄弟姉妹の皆さん。この場所から、世界のさまざまな場所で、信仰ゆえに今日も苦しみ、殉教の苦しみを味わうキリスト者とも心を合わせましょう。21世紀の殉教者たちは、そのあかしをもって、勇気をもって真福八端の道を自分のものとするようわたしたちに求めています。彼らのために、彼らとともに祈りましょう。そして、すべての人に、世界の隅々に至るまで、信教の自由が保障されるよう声を上げましょう。また、宗教の名を使ったすべての不正に対しても声を上げましょう。「人間の行動と人類の運命を誘導する全体支配主義と分断を掲げる政略、度を超えた利益追求システム、憎悪に拍車をかけるイデオロギー」(「人類の兄弟愛に関する共同文書(201924日、アブダビ)」)に対して。
 わたしたちの母、殉教者の元后に、そして自らのいのちをもって主のすばらしさをあかしした聖パウロ三木と同志殉教者たちすべてに願いましょう。彼らの献身が、宣教の喜びを呼び覚まし保つことができるよう、皆さんの国、そして教会全体のために、取り次いでくれますように。