2020年2月14日金曜日

教皇フランシスコ日本訪問を追って  (8) 



教皇フランシスコ日本訪問を追って  (8) 
2019年11月25日、東京

(8)  2019/11/25D

16:00  ミサ  東京ドームにて

教皇ミサ/Holy Mass(東京ドーム/Tokyo Dome): 生配信URL:https://youtu.be/j_fLDeW2p98

解説付き コメンテイター2人 【LIVE】教皇ミサ(日本語コメンタリー版)Holy Mass/Tokyo Dome【公式】

ローマ教皇 38年ぶり来日、東京ドームで5万人ミサ(2019年11月25日) (字幕なし)


 










 

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教皇フランシスコのホミリア(説教)
(諸文書)

今聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。「山上の説教」と呼ばれているもので、わたしたちが歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。神はモーセに、「わたしのもとへ登りなさい」(出エジプト24・1参照)と仰せになりました。その山頂には、主意主義によっても、「出世主義」によっても到達できません。分かれ道において師なるかたに、注意深く、忍耐をもって丁寧に聞くことによってのみ、山頂に到達できるのです。山頂は平らになり、周りがすべて見渡せるようになり、そこはたえず新たな展望を、御父のいつくしみ(compasión)を中心とする展望を与えてくれるのです。
イエスにこそ、人間とは何かの極みがあり、わたしたちの考えをことごとく凌駕する充満に至る道が示されています。イエスにおいて、神に愛されている子どもの自由を味わう新しいのちを見いだすのです。
しかし、わたしたちはこの道において、子としての自由が窒息し弱まるときがあることを知っています。
それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、心を表面的ではかないことがらへと向かうよう押しやるのです。何でも生産でき、すべてを支配でき、すべてを操れると思い込む熱狂が、どれほど心を抑圧し、縛りつけることでしょう。
ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。
力づける香油のごとく、主のことばが鳴り響きます。思い煩うことなく、信頼しなさい、と。主は三度にわたって繰り返して仰せになります。自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6・25、31、34参照)。これは、周りで起きていることに関心をもつなといっているのでも、自分の務めや日々の責任に対していい加減でいなさいといっているのでもありません。それよりも、意味のあるより広い展望に心を開くことを優先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさいという励ましなのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)。
主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。世俗の姿勢はこの世での己の利益や利潤のみを追い求めます。利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展をはばむのです。
孤立し、閉ざされ、息ができずにいるわたしに抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち、これしかありません(「一般謁見講話(2019年2月13日)」参照)。主のこの招きは、わたしたちに次のことを思い出させてくれます。「必要なのは、『わたしたちの現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだということを、歓喜のうちに認めることです。それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。
それゆえ、第一朗読において、聖書はわたしたちに思い起こさせます。いのちと美に満ちているこの世界は、何よりも、わたしたちに先立って存在される創造主からのすばらしい贈り物であることを。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創世記1・31)。与えられた美と善(bondad)は、それを分かち合い(compartir)、他者に差し出すためのものです。わたしたちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの創造的な夢(mismo sueños Creador)にあずかる者なのです。
「わたしたちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然とのかかわりをも真に気遣うことは、友愛(fraternidad きょうだい愛)、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。
この現実を前に、キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り(proteger toda la vida)、あかしするよう招かれています。知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さ(generosidad) とすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です。「そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさ(insignificancia)をもすべてそのまま」(「ワールドユースデーパナマ大会の前晩の祈りでの講話(2019年1月26日」)引き受けるのです。
わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています。つまり、「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。
イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされたのです」(同)。
いのちの福音(Evangelio de la vida)を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみ(compasión del Padre)という基準です。
善意あるすべての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、絶えざる協力と対話を重ねつつ、主に結ばれるならば、わたしたちは、すべてのいのち(toda la vida)を、よりいっそう守り世話する、社会の預言的パン種となれるでしょう。
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感謝のことば
タルチジオ・菊地功 東京大司教
(2:06~)
 フランシスコ教皇様、この度の来日に対し、日本の教会共同体を代表して、また当地、東京の司教として、心からの感謝を申し上げます。ありがとうございます。
この度の教皇様来日にあたり、「すべてのいのちを守るため」を、司教団はテーマとして選びました。『ラウダート・シ』に記された「被造物とともにささげるキリスト者の祈り」にあるように、わたしたちは、世界を守り、それぞれのものの価値を見いだし、美と愛と平和の種をまくために働く道具となることが、今の日本にとって大切なことだと思いました。
 わたしたちの共通の家である地球は蹂躙され、うめき声をあげています。教皇様は、この嘆き声に耳を傾け、地球を保全し、未来の世代のためにその美しさを守るように、世界の人々に呼びかけておられます。
 今日の日本は、環境、経済、近隣諸国との共存の関係、大震災からの復興、そして原発事故の影響など、さまざまなレベルで人間のいのちにかかわる問題に直面しています。人間のいのちの尊厳を踏みにじるような事件も少なからず発生し、さまざまな要因から、孤独や孤立のうちに誰からも理解されず、助けを得ることもなく、いのちの危機に瀕している方も少なくありません。
 フランシスコ教皇様、この度の日本訪問で、教皇様は日本に住む多くの人々に、神のいやしと愛と希望を示してくださいました。
 わたしたちは、小さな共同体ですが、教皇様の励ましをいただき、アジアの兄弟姉妹と手を取り合い、歩みをともにしながら、神から与えられたいのちの尊厳を守り、いつくしみの神のいやしと、希望の福音を宣べ伝えていきます。
 教皇様、あなたの力強いことばと模範を通して、わたしたちを、すべてのいのちに仕える奉仕者になるようお導きくださり、感謝申し上げます。
 最後に、もう一度、教皇様、日本を訪れていただき、ありがとうございました。

2020年2月13日木曜日

教皇フランシスコ日本訪問を追って  (6) (7) 



教皇フランシスコ日本訪問を追って  (6) (7) 

2019年11月25日、東京

(6) 2019/11/25B
天皇陛下との会見  皇居にて
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(7)  2019/11/25C
青年との集い
(東京カテドラル聖マリア大聖堂)
2019
年11月25日 11:45

青年との集い/ Meeting with Young People【公式】

【11月25日(月)のライブ配信】 ・青年との集い/Meeting with Young People(東京カテドラル聖マリア大聖堂/the Cathedral of Holy Mary): 生配信URL:https://youtu.be/uUkEI2iCi7U

来日3日目の25日、ローマ教皇フランシスコは、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行なわれた「青年との集い」に参加した。大聖堂には約900人が集まり、教皇は若者3人の代表者によるスピーチの後、講話を語った。青年を代表してスピーチしたのは、発展途上国支援団体職員の小林未希さん、中学校教員の工藤雅子さん、フィリピン出身のカチュエラ・レオナルドさんの3人。

33:15    小林未希(みき)さんの証言 「カトリック青年として生活すること」
38:34      工藤雅子さん(中学校教員、保健体育)の証言 「若者として生きること」(生徒たちについて)43:02       カチュエラ・レオナルドさん「外国籍を持って生活することの喜びや悲しみ、苦しみ」





教皇フランシスコのスピーチ
54:32~



愛する若者の皆さん。
ここに集まってくれてありがとう。皆さんのパワーと熱意を見て、聞いて、喜びと希望がもてました。本当にありがとう。そしてレオナルドさん、未希さん、雅子さん、証言に感謝します。あなたたちがしてくれたように、心の中のものを分かち合うのは、大変勇気がいることです。
三人の声に、ここにいる多くの仲間も共感したはずです。ありがとう。皆さんの中には、ほかの国から来た若者もいるでしょう。中には、避難してきたかたもいることでしょう。さあ、わたしたちが望む未来の社会を、一緒に作り上げることを学んでいきましょう。
皆さんを見ると、今日の日本に生きる若者は、文化的および宗教的に多様なことが分かります。
それこそが、皆さんの世代が未来にも手渡せる美しさです。皆さんの間にある友情、この場にいる一人ひとりの存在が、未来はモノトーンではなく、各人による多種多様な貢献によって実現するものだということを、すべての人に思い起こさせてくれます。
わたしたち人類家族にとって、皆が「同じようになる」のではなく、調和と平和のうちに共存すべきだと学ぶことが、どれほど必要でしょうか。
わたしたちは、工場の大量生産で作られたのではないのです。一人ひとり、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、異なるのです。分かち合うべき自分の物語を、だれもがもっているのです。
翻訳されていないことを話すときは、彼(レンゾ神父)が訳してくれます。いいですか?
兄弟愛(Fraternidad)の内に成長していかなければなりません。、ほかの人が抱える問題に関心を寄せ、異なる経験や見方を尊重すること、それがどれほど必要でしょうか。この集いは一つの祭り(Fiesta, フィエスタ)です。なぜなら「出会いの文化」は可能だと宣言しているからです。それはユートピア(Utopia, 理想郷)ではありません。そしてあなたたち若者には、それを実現していくとくべつな感性があると思います。
三人が投げかけてくれた質問に、胸を揺さぶられました。皆さんの具体的な体験と、将来への希望と夢を映し出しているからです。
レオナルドさん、あなたが苦しんだいじめと差別の経験を、分かち合ってくれてありがとう。多くの若者が、あなたのように自らの体験について勇気をもって話すことの大切さに気づくでしょう。
わたしの時代、わたしが若かったころは、レオナルドさんが話したようなことは決して口にしませんでした(人と分かち合うようなことはしませんでした)。
学校でのいじめが本当に残酷なのは、自分自身を受け入れ、人生の新しい挑戦に立ち向かうための力をいちばん必要とするときに、精神と自信(自分を信じること)が傷つけられるからです。いじめの被害者が、「いじめやすい」標的なのだと自分を責めることも珍しくありません。砕かれた自分は弱いのだ、価値がないのだ・・・そんな気持ちになり、とてつもなくつらい状況に追い込まれてしまいます。「こんな自分じゃなかったなら・・・」と。
けれども実は反対なのです。攻撃する側こそ、本当は弱虫なのです。他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できると考えるからです。自分とは違うとみなすや攻撃します。違いは自分にとって脅威だと思うからです。実は、いじめる人たち(accusatores 非難を浴びせる人たち)こそがおびえていて、見せかけの強さで装うのです。
これについて――よく聞いてください――ほかの人を傷つけようとしたり、ほかの人をいじめたり、又そう見えたりしたなら、その人こそ臆病者なのです。一方いじめられる側は弱い人間ではありません。
弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。自分は立派な存在なのだと実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。
先ほど(彼の証言の後にことばをかけた際)、レオナルドさんには「デブといわれたら、痩せて元気そうじゃない君のほうがカッコ悪いよ」と言ってやりなさいと教えておきました。
わたしたち皆で、この「いじめ(bullismo 強がり、弱者攻撃)」の文化に対して力を合わせ、皆で力を合わせ、はっきりという必要があります。もうやめよう(Basta)! これは疫病です。そしてこの疫病に対して使える最良の薬は、皆さん自身です。学校や大人がこの悲劇を防ぐために尽くす手立てだけでは足りません。皆さんの間で、友人どうしで、仲間どうしで、いっしょに 「No!」、「いじめは絶対だめ」、ほかの人を攻撃するのは悪いことだ、と言わなければいけません。
クラスメイトや友人の間で共に「立ち上がる」こと以上に、いじめに対抗する強力な武器はありません。そして言うのです。「あなたがしていることは、『いじめ』は、とてもひどいこと(grave)だよ」と。
 「いじめ」る人は、怖れている人です。恐れはつねに善の敵です。それゆえ、愛と平和の敵です。
すべての偉大な宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容(tolerancia)を教え、調和を教え、いつくしみ(misericordia)を教えます。真の宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。
わたしたちキリスト者は、弟子たちに、恐れることはないといわれるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。わたしたちが神とともにおり、神とともに兄弟姉妹を愛するならば、その愛は恐れ(timor)を締め出すからです(一ヨハネ4・18参照)
レオナルドさんが気づかせてくれたように、イエスの生き方を見ることで、わたしたちは慰めを得るはずです。イエスご自身も、侮蔑され、拒絶され、最後には十字架につけられる体験をしたからです。また、よそ者、難民、ほかとは「違う」者であるとは何かを、身をもって味わいました。
【この話はキリスト信者のためにしていますが、他の宗教のみなさんにも一つの宗教的模範として参考になると思います。】
イエスこそ、もっとも「隅に追いやられた人」であり、与えるためのいのちに満ちていた人でした。レオナルドさん、自分の乏(とぼ)しさに目を向けることもできますが、自分が与え、差し出すことのできる「生」を見いだすこともできます。
世界はあなたを必要としている、それを決して忘れないでください。主は、あなたを必要としています。今日、起き上がるのに手を貸してほしいと求めている多くの人に、勇気を与えるために、主はあなたを必要としておられるのです。
人生に役立つことを一つ、皆さんに話したいと思います。人を軽んじ、蔑むとは、上からその人を見下げることです。つまり、自分が上で、相手が下だと。相手を上から下へ見てよい唯一正しい場合は、相手を起き上がらせるために手を貸すときです。
わたしも含め、この中にいるだれかが、だれかを軽んじて見下すなら、その人は情けない人間と言えます。でも、この中のだれかが、手を差し伸べ起き上がらせるために、下にいる人を見るのなら、その人は立派です。だから、だれかを上から下へ見るとき、心に聞いていてください。自分の手はどこにあるか。後ろに隠してあるだろうか。それとも立ち上がらせるために、差し伸べているか、と。そうすれば、幸せになります。
分かりましたか。いいですか、分かりましたか。分かりませんでしたか。しんとしていますね。
それには、とても大切なのにあまり評価されていない「資質(qualitade)」をはぐくむことが求められます。他者のために時間を割き、耳を傾け、共感し、理解するという・・・資質です。それがあって初めて、自分のこれまでの人生と傷を通して、わたしたちを新たにし、周囲の世界を変える愛に向かって進み出せるのです。
「人のために」時間を割かず、費やさず、時間を浮かせても、結局は多くの雑多なことに時間が奪われ、一日が終わると空虚さで呆然としてしまいます。そのような状態をわたしの国(アルゼンチン)では、吐きそうなほどお腹いっぱいに用事を詰め込む、という言い方をします。
ですから、家族のために時間を取ってください。友人のために時間を取ってください。でもそれだけでなく、神のためにも、祈りと黙想をもって――各自、自分の信仰信条に従って……。
そうするのが難しいときも祈ってください。あきらめてはいけません。かつて、ある思慮深い霊的指導者がいいました。祈りとは基本的に、ただそこに身を置いているということだと。心を落ち着け、神が入ってくるための時間を作り、神に見つめてもらいなさい。神はきっと、あなたを平和で満たしてくださるでしょう。
 これはまさに、未希さんが語ったことです。彼女は、競争力、生産性ばかりが注目される慌ただしい社会で、若者がどのように神のために時間を割くことができるかを尋ねました。人間や共同体、あるいは社会全体でさえ、外的に高度に発展しても、内的生活は貧しく、委縮し、熱意も活力も失っていることがよくあります。
その人たちは完成されたロボットのようなもので、非常に完璧に動くことはできますが、心はないのです。残念ながら、夢を見ない若者がたくさんいます。これは大変なことです。若者には夢や神を愛するための心の中のスペースが必要です。すべてにうんざりして、夢を見ることもなく、笑うことも、楽しむこともなくなり、すごいと思ったり、驚いたりする感性を失ってしまうのです。他者との人生を喜べず、ゾンビのように心の鼓動は止まっています。
なぜでしょうか。他者との生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは、幸せになります。ほかの人と「生(生きること)を祝う(celebrar la vida)力」を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。
世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人のなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔のない(anonima)社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。
貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」。
心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪の貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。そうしたら気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、愛されていないと感じることです。
分かりましたか(場内、拍手)。わたしの話はつまらないかな? (場内「No!」の声) もう少しで終わりますからね。(笑い)。
この霊的な貧困との闘いは、わたしたち全員に呼びかけられている挑戦であり、あなたがた若者には特別な役割があります。それはわたしたちの優先事項に、わたしたちの選択に、大幅な変更を要求するからです。もっとも重要なことは、何を手にしたか、これから手にできるかという点にあるのではなく、それ(時間)を「だれと分かち合うか」、という問いの中にあると知ることです。
この問いを問うことを習慣としてください。「何のために」生きているかではなく、「だれのため」に生きているのか。だれと、生を分かち合っている(compartire)のか」。何のために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。
肝心なのは、だれのために生きているのかということです。物も大切ですが、人間は欠けてはならない存在です。人間不在なら、わたしたちは人間らしさを失い、顔も名もない存在になり、結局はただの物、いくら最高級でも、ただの物でしかなくなります。いくら最高の品でも、それは単なる物です。一方、わたしたちは人間(personas)なのです。
シラ書には、「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ」(シラ6・14)とあります。だからこそ、次のように問うことが大事なのです。わたしは「だれのために」あるのか。あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在して欲しいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんのよいもの、傾向、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためなのです」(使徒的勧告『キリストは生きている』286)。
他者と共有するため(compartir)、ただ生きるのではなく、生(la vida 生きること)を分かち合うのです。
生を分かち合ってください(compartir la vida)。
そしてこれこそが、あなたがたがこの世界に差し出すことのできる、すばらしいものなのです。若者は、この世界に「何かを与える能力」を持っています。社会における友情、あなたがたの間の友情の証し人となってください。できるはずです。出会いの文化、受容、きょうだい愛(fraternidad)、そして一人ひとりの(cada persona)尊厳、とりわけ、愛され理解されることを必要としている人の尊厳に対する敬意に基づいた、未来への希望を持つこと。そうすれば、攻撃したり蔑んだりする必要性を感じることなく、他者のもつ豊かさを評価するようになるのです。
わたしたちの助けとなる考え方があります。肉体的に生存するためには、呼吸が必要です。それは、意識せず、自動的にしている行為です。
本当の意味で充実して生きるには、霊的な呼吸を学ぶ必要があります。祈りと黙想(meditacion)を通して、心の奥深い場所で「わたしたちに語りかける神」に耳を傾けること。また、愛と奉仕のわざによって他者にかかわる外的な動きも必要です。この内的外的な動きによって、神はわたしたちを愛しているだけでなく、わたしたち一人ひとりに使命を、唯一無二の召命を託しているのだと気づきます。そしてその召命は、他者に、それも具体的な人々に自分を差し出すことにより、よりはっきりと見えてくるのです。
雅子さんは、自身の学生時代と教師としての経験から、そうしたことについて話してくれました。若者が、自分のよさや勇気に気づくには、どのような助けを与えたらよいかを尋ねてくれました。もう一度繰り返しますが、成長するには、自分らしさ、自分のよさ、自分の内面の美しさを発見するには、鏡を見てもしかたありません。さまざまな発明がありますが、ありがたいことに、まだ魂のセルフィー(自撮り)はできません。幸せになるには、ほかの人の助けが必要です。写真をだれかに撮ってもらわないといけません。つまり、自分の中にこもらずに、ほかの人、とくに、もっとも困窮する人のもとへと出向くことです(同171参照)。
皆さんに一ついいたいことがあります。自分のことを見過ぎないでください。鏡ばかりを見ないでください。見過ぎて、鏡が割れてしまう危険がありますからね! もうすぐ話は終わります。もう時間ですね。さて、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。
かつて、賢い教師がいって言っていました。知恵を得るための鍵は、正しい答えを得ることよりも、正しい問いを見いだすことだと。それぞれで考えてください。「答えられるだろうか。ちゃんと答えられるだろうか。正解を答えられるだろうか」。はい、とこたえる人がいれば、それは幸せなことです。でも、また別の問いを考えてみてください。「正しい質問をすることができるだろうか。人生について、自分自身について、他者について、神について、そのような問いへ深入りしていく心があるだろうか」と。
単に問いに正しくこたえられたなら、試験は合格です。でも、「正しい質問」ができなければ、人生の試験には合格しません。誰でもが雅子さんのように教師をしているわけではありませんが、皆さんにも、よい問いをもって、自分自身に問いかけてほしいと思います。自らに問うだけでなく、ほかの人が、人生の意味や、次世代のためによりよい未来をどのように築けるかについて、自らに問いかけることが出来るよう、手助けしてあげてください。
愛する若者の皆さん、熱心に聞いてくれてありがとう! 忍耐強く聞いて下さったことに感謝します。皆さんがわたしに捧げてくれたこの時間のすべてに、そして皆さんの人生の一部を分かち合ってくださったことに、感謝します。
皆さんの夢に蓋をしたり、ぼやかしたりしないで下さい。壮大な夢を見ましょう。広い地平を目指すことに熱意を燃やしましょう。世界はそのような若者を必要としています。居眠りしている者ではありません。喜んで自らを捧げる者、大きな希望を持っている者、すべての人の家を築く熱意を持つ者を必要としています。
みなさんのために祈ると約束します。
みなさんが霊的な知恵をはぐくめますように。正しい問いをできますように。(自分だけを見つめる)鏡を忘れることができますように。他者に目を向けることができますように。
みなさんのために祈り続けます。みなさんと、みなさんのご家族とご友人に、豊かな幸せを願いつつ、わたしの祝福を送ります。
どうかわたしのためにも祈ってください。そして、よろしかったらわたしにもよい質問を投げかけて下さるよう、心からお願いします。
本当にありがとう。


参考サイト

2020年2月3日月曜日

教皇フランシスコ日本訪問を追って    ( 5 ) 



教皇フランシスコ日本訪問を追って    ( 5 )  東京

2019/11/25A

東日本・三重災害被災者との集まり
ベルサール半蔵門
2019
年11月25日、東京

Meeting with the victims of Triple Disaster【公式】 

高校生の鴨下全生(かもした・まつき)さんのスピーチ
https://www.youtube.com/watch?v=JoCNVJfRDgU  (41:20 ~)





親愛なるパパ(教皇)様
僕は福島県いわき市に生まれました。8歳だった時に原発事故が起きて、被爆を逃れるために東京に避難しました。
でも父は、母に僕らを託して福島に戻りました。父は教師で僕らの他にも守るべき生徒たちがいたからです。母は僕と3歳の弟を連れて慣れぬ地を転々としながら避難を続けました。弟は寂しさで布団の中で泣きました。僕は避難先でいじめにも合い、死にたいと思うほどつらい日々が続きました。
やがて父も心と体がぼろぼろになり、仕事を続けられなくなりました。それでも、避難できた僕らはまだ幸せなのだと思います。国は避難住宅の提供さえも打ち切りました。僕は必死に残留しているけれど、多くの人がやむなく汚染した土地に帰って行きました。でも広く東日本いったいに降り注いだ放射性物質は8年経った今も放射線を放っています。
汚染された大地や森が元通りになるには、僕の寿命の何倍もの歳月が必要です。だから、そこで生きていく僕たちに大人たちは汚染も被ばくも、これから起きる可能性のある被害も、隠さず伝える責任があると思います。嘘を付いたまま、認めないまま先に死なないでほしいのです。
原発は国策です。そのため、それを維持したい政府の思惑にそって賠償額や避難区域の線引きが決められ、被災者の間で分断が生じました。傷付いた人同士が、互いに隣人を憎み合うように仕向けられてしまいました。僕たちの苦しみはとても伝えきれません。だからパパさま、どうか共に祈ってください。
僕たちが互いの痛みに気付き、再び隣人を愛せるように。
残酷な現実であっても目を背けない勇気が与えられるように。
力を持つ人たちに悔い改めの勇気が与えられるように。
皆でこの被害を乗り越えていけるように。
そして、僕らの未来から被ばくの脅威をなくすため、世界中の人が動き出せるように。
どうか共に祈ってください。
***********
教皇フランシスコのメッセージ


愛する友人の皆さん。
 皆さんとのこの集いは、わたしの日本訪問中の大切なひとときです。アルゼンチンの音楽で迎えてくださりありがとうございます。とくに敏子さん、徳雲さん、全生さんに感謝します。それぞれのこれまでの歩みをわたしたちと分かち合ってくださり、ありがとうございます。この3名のかた、そして皆さんは、三重災害、つまり地震、津波、原発事故によって言い表せないほどの本当に辛い思いをされた、すべての人を代表しておられます。災害は、岩手県、宮城県、福島県だけでなく、日本全土と全国民に影響を及ぼしました。ご自分のことばと姿で、大勢の人が被った悲しみと痛みを、そして、よりよい未来に広がる希望を伝えてくださり、ありがとうございます。全生さんはご自分の証言を終える際に、わたしに皆さんの祈りに加わってほしいと招いてくださいました。しばらく沈黙の時間を取り、最初のことばとして、1万8千人にも上る亡くなられたかた、ご遺族、いまだ行方の分からないかたのために祈りましょう。わたしたちを一つにし、希望をもって前を見る勇気を与えてくれる祈りをしましょう。
 地方自治体、諸団体、人々の尽力にも感謝します。皆さんは、災害地域の復興に取り組み、また、現在も仮設住宅に避難して自宅に帰ることができずにいる、5万以上もの人の境遇改善に努めておられます。
 とくに感謝したいのは、敏子さんが的確に指摘されたように、日本だけでなく世界中の多くの人が、災害直後に迅速に動いてくれたことです。祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間が経てばなくなるものや、最初の衝撃が薄れれば衰えていくものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません。全生さんの指摘についていえば、被災地の住人の中には、今はもう忘れられてしまったと感じている人もいます。汚染された田畑や森林、放射線の長期的な影響などで、継続的な問題を突きつけられている人も少なくありません。
 この集いが、集まった全員によって、この惨劇を被った被災者のかたがたが引き続き多くの必要な助けを得るための、心あるすべての人に訴える呼びかけとなりますように。
 食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。敏子さんは津波で家を失いましたが、いのちが助かったことをありがたいと思い、助け合うために団結する人を見て希望をもっていると話してくれました。三重災害から8年、日本は、連帯し、根気強く、粘り強く、不屈さをもって、一致団結できる人々であることを示してきました。完全な復興まで先は長いかもしれません。しかし、助け合い、頼り合うために一致できるこの国の人々の魂をもってすれば、必ず果たすことができます。敏子さんがいわれたように、何もしなければ結果はゼロですが、一歩踏み出せば一歩前に進みます。ですから皆さん、毎日少しずつでも、前に進んでいくよう励まします。連帯と献身に基づく未来を築くための一歩です。だれかのため、皆さんのため、皆さんの子どもや孫のため、そしてこれから生まれてくる次の世代のためです。
 徳雲さんは、わたしたちに影響する別の重要な問題に、どのようにこたえうるかを尋ねられました。ご存じのとおり、戦争、難民、食料、経済格差、環境問題は、切り離して判断したり対処したりはできません。今日、問題を強大なネットワークの一部とみなすことなく、個々別々に扱えると考えるのは大きな間違いです。的確に指摘してくださったように、わたしたちはこの地球の一部であり、環境の一部です。究極的には、すべてが互いに絡み合っているからです。思うに最初の一歩は、天然資源の使用に関して、そしてとくに将来のエネルギー源に関して、勇気ある重大な決断をすることです。無関心と闘う力のある文化を作っていくために、働き、歩むことです。わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決を包括的に受け止め、きずなという知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。わたしたちは、互いにつながっているのです。
 この意味で特別に思い起こしたいのが、福島第一原子力発電所の事故とその余波です。科学的・医学的な懸念に加えて、社会構造を回復するという、途方もない作業もあります。地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません。これが意味するのは、わたしの兄弟である日本の司教たちがいみじくも指摘した、原子力の継続的な使用に対する懸念であり、司教たちは原子力発電所の廃止を求めました。
 この時代は、技術の進歩を人間の進歩の尺度にしたいという誘惑を受けています。進歩と発展のこの「技術主義(テクノクラティックパラダイム)」は、人々の生活と社会の仕組みを形成します。そしてそれは、しばしばわたしたちの社会のあらゆる領域に影響を与える還元主義につながります(回勅『ラウダート・シ』101-114参照)。したがって、このようなときには、立ち止まり、じっくり考え、振り返ってみることが大切です。わたしたちは何者なのか、そしてできればより批判的に、どのような者になりたいのかを省みるのが大事なのです。わたしたちの後に生まれる人々に、どのような世界を残したいですか。何を遺産としたいですか。お年寄りの知恵と経験が、若い人の熱意とやる気とともに、異なるまなざしを培う助けとなってくれます。いのちという贈り物を尊ぶ助けとなるまなざしです。さらに、ユニークで、多民族、多文化である人類家族として、わたしたちの兄弟姉妹との連帯を培うことも助けてくれるのです。
 わたしたちの共通の家の未来について考えるなら、ただただ利己的な決断は下せないこと、わたしたちには未来の世代に対して大きな責任があることに気づかなければなりません。その意味でわたしたちは、控えめで慎ましい生き方を選択することが求められています。それは、向き合うべき緊急事態に気づく生き方です。敏子さん、徳雲さん、全生さんは、未来のための新たな道を見つける必要をわたしたちに思い出させてくれました。一人ひとりを大切に、そして自然界を大切にする心に基づく道です。この道において「わたしたちは皆、神の道具として、被造界を世話するために、おのおの自身の文化や経験、自発性や才能に応じた協力ができるのです」(同14)。
 愛する兄弟姉妹の皆さん。三重災害後の復興と再建の継続的な仕事においては、多くの手と多くの心を、あたかも一つであるかのように一致させなければなりません。こうして、苦しむ被災者は助けを得て、自分たちが忘れられていないと知るはずです。多くの人が、実際に、確実に、被災者の痛みをともに担っていると、兄弟として助けるために手を差し伸べ続けると知るでしょう。あらためて、大げさにではなく飾らない姿勢で、被災者の重荷を和らげようと尽くしたすべての皆さんを称え、感謝を申し上げます。そのような思いやりが、すべての人が未来に希望と安定と安心を得るための、歩むべき道のりとなりますように。
 ここにお集まりいただきましたことに、あらためて感謝いたします。わたしのために祈ってください。神様があなたと、あなたの愛する人すべてに、知恵と力と平和という祝福を与えてくださいますように。ありがとうございました。


分断の痛み 被害者同士の争いを越えよう

教皇フランシスコの前でのスピーチを終えて。 鴨下全生(まつき)さん、

急性胃炎か胃潰瘍で39度の熱が出て、生れてはじめての点滴を受けていました。パパ様に会って緊張したからではないです。謁見は2度目でしたし、パパ様はやさしくて、緊張したけどストレスはありませんでした。ストレスを受けていたのは被災者との集いが終わった直後、パパ様と話して精神的に無防備になっていた時に、会場に来ていた被災者の方から、「さっきのスピーチの、それでも避難できた僕らはまだ幸せなのだと思います、とはどういう意味だ。僕はずっと福島に住んでいる。その俺たちに対して、それはどういう意味だ!」と詰め寄られ、気が動転してうまくこたえられず、そのまま数分間詰め寄られていたことで一気に胃を悪くしてしまいました。
冷静に考えられれば、言うべきはまず「僕の話を聞いてくれてありがとう」。そしてその人を苦しめているものが何なのかを聞くべきでした。山本太郎さんだったらその場で返したんでしょうが、やっぱりまだまだそこはできないのだな、とあらためて感じました。ただ、この話はまさに僕が伝えたかった、福島原発事故で起きた分断が具体化されたものなのです。傷ついた人同士がさらにお互いを傷つけあってしまい、力を消耗してしまう。傷がない人には何でもないことばが、傷ついた人にはとても、すごく刺さってしまう。それを懼れて被害者が被害を口にできなくなってしまい、どんどん内側から被害の風化が進んでしまう。これを何とかしたいのです。
山本太郎さんも分断のことを泣きながら語っています。傷ついた人が、傷ついた人同士で石を投げ合っているのが今の福島です。
原発さえなければなかった分断の痛み。これを乗り越えないと裁判も勝てないし、被害者も救済されず、また原発が動き出して、次の被害が世界のどこかで起こってしまいます。
どうか共に祈ってください。福島だけでなく、誤った政治によって傷を負ったすべての人たちが、痛みを伴う分断を乗り越えられるように。「自己責任」と人を切り捨てることが無いように。そうしたら真の平和に近づくことができると思います。
ありがとうございました。