2019年11月25日、東京
青年との集い
(東京カテドラル聖マリア大聖堂)
2019年11月25日 11:45
2019年11月25日 11:45
青年との集い/ Meeting with Young People【公式】
来日3日目の25日、ローマ教皇フランシスコは、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行なわれた「青年との集い」に参加した。大聖堂には約900人が集まり、教皇は若者3人の代表者によるスピーチの後、講話を語った。青年を代表してスピーチしたのは、発展途上国支援団体職員の小林未希さん、中学校教員の工藤雅子さん、フィリピン出身のカチュエラ・レオナルドさんの3人。
愛する若者の皆さん。
ここに集まってくれてありがとう。皆さんのパワーと熱意を見て、聞いて、喜びと希望がもてました。本当にありがとう。そしてレオナルドさん、未希さん、雅子さん、証言に感謝します。あなたたちがしてくれたように、心の中のものを分かち合うのは、大変勇気がいることです。
三人の声に、ここにいる多くの仲間も共感したはずです。ありがとう。皆さんの中には、ほかの国から来た若者もいるでしょう。中には、避難してきたかたもいることでしょう。さあ、わたしたちが望む未来の社会を、一緒に作り上げることを学んでいきましょう。
皆さんを見ると、今日の日本に生きる若者は、文化的および宗教的に多様なことが分かります。
それこそが、皆さんの世代が未来にも手渡せる美しさです。皆さんの間にある友情、この場にいる一人ひとりの存在が、未来はモノトーンではなく、各人による多種多様な貢献によって実現するものだということを、すべての人に思い起こさせてくれます。
わたしたち人類家族にとって、皆が「同じようになる」のではなく、調和と平和のうちに共存すべきだと学ぶことが、どれほど必要でしょうか。
わたしたちは、工場の大量生産で作られたのではないのです。一人ひとり、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、異なるのです。分かち合うべき自分の物語を、だれもがもっているのです。
翻訳されていないことを話すときは、彼(レンゾ神父)が訳してくれます。いいですか?
兄弟愛(Fraternidad)の内に成長していかなければなりません。、ほかの人が抱える問題に関心を寄せ、異なる経験や見方を尊重すること、それがどれほど必要でしょうか。この集いは一つの祭り(Fiesta, フィエスタ)です。なぜなら「出会いの文化」は可能だと宣言しているからです。それはユートピア(Utopia, 理想郷)ではありません。そしてあなたたち若者には、それを実現していくとくべつな感性があると思います。
三人が投げかけてくれた質問に、胸を揺さぶられました。皆さんの具体的な体験と、将来への希望と夢を映し出しているからです。
レオナルドさん、あなたが苦しんだいじめと差別の経験を、分かち合ってくれてありがとう。多くの若者が、あなたのように自らの体験について勇気をもって話すことの大切さに気づくでしょう。
わたしの時代、わたしが若かったころは、レオナルドさんが話したようなことは決して口にしませんでした(人と分かち合うようなことはしませんでした)。
学校でのいじめが本当に残酷なのは、自分自身を受け入れ、人生の新しい挑戦に立ち向かうための力をいちばん必要とするときに、精神と自信(自分を信じること)が傷つけられるからです。いじめの被害者が、「いじめやすい」標的なのだと自分を責めることも珍しくありません。砕かれた自分は弱いのだ、価値がないのだ・・・そんな気持ちになり、とてつもなくつらい状況に追い込まれてしまいます。「こんな自分じゃなかったなら・・・」と。
けれども実は反対なのです。攻撃する側こそ、本当は弱虫なのです。他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できると考えるからです。自分とは違うとみなすや攻撃します。違いは自分にとって脅威だと思うからです。実は、いじめる人たち(accusatores 非難を浴びせる人たち)こそがおびえていて、見せかけの強さで装うのです。
これについて――よく聞いてください――ほかの人を傷つけようとしたり、ほかの人をいじめたり、又そう見えたりしたなら、その人こそ臆病者なのです。一方いじめられる側は弱い人間ではありません。
弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。自分は立派な存在なのだと実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。
先ほど(彼の証言の後にことばをかけた際)、レオナルドさんには「デブといわれたら、痩せて元気そうじゃない君のほうがカッコ悪いよ」と言ってやりなさいと教えておきました。
わたしたち皆で、この「いじめ(bullismo
強がり、弱者攻撃)」の文化に対して力を合わせ、皆で力を合わせ、はっきりという必要があります。もうやめよう(Basta)! これは疫病です。そしてこの疫病に対して使える最良の薬は、皆さん自身です。学校や大人がこの悲劇を防ぐために尽くす手立てだけでは足りません。皆さんの間で、友人どうしで、仲間どうしで、いっしょに 「No!」、「いじめは絶対だめ」、ほかの人を攻撃するのは悪いことだ、と言わなければいけません。
クラスメイトや友人の間で共に「立ち上がる」こと以上に、いじめに対抗する強力な武器はありません。そして言うのです。「あなたがしていることは、『いじめ』は、とてもひどいこと(grave)だよ」と。
「いじめ」る人は、怖れている人です。恐れはつねに善の敵です。それゆえ、愛と平和の敵です。
すべての偉大な宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容(tolerancia)を教え、調和を教え、いつくしみ(misericordia)を教えます。真の宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。
わたしたちキリスト者は、弟子たちに、恐れることはないといわれるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。わたしたちが神とともにおり、神とともに兄弟姉妹を愛するならば、その愛は恐れ(timor)を締め出すからです(一ヨハネ4・18参照)
レオナルドさんが気づかせてくれたように、イエスの生き方を見ることで、わたしたちは慰めを得るはずです。イエスご自身も、侮蔑され、拒絶され、最後には十字架につけられる体験をしたからです。また、よそ者、難民、ほかとは「違う」者であるとは何かを、身をもって味わいました。
【この話はキリスト信者のためにしていますが、他の宗教のみなさんにも一つの宗教的模範として参考になると思います。】
イエスこそ、もっとも「隅に追いやられた人」であり、与えるためのいのちに満ちていた人でした。レオナルドさん、自分の乏(とぼ)しさに目を向けることもできますが、自分が与え、差し出すことのできる「生」を見いだすこともできます。
世界はあなたを必要としている、それを決して忘れないでください。主は、あなたを必要としています。今日、起き上がるのに手を貸してほしいと求めている多くの人に、勇気を与えるために、主はあなたを必要としておられるのです。
人生に役立つことを一つ、皆さんに話したいと思います。人を軽んじ、蔑むとは、上からその人を見下げることです。つまり、自分が上で、相手が下だと。相手を上から下へ見てよい唯一正しい場合は、相手を起き上がらせるために手を貸すときです。
わたしも含め、この中にいるだれかが、だれかを軽んじて見下すなら、その人は情けない人間と言えます。でも、この中のだれかが、手を差し伸べ起き上がらせるために、下にいる人を見るのなら、その人は立派です。だから、だれかを上から下へ見るとき、心に聞いていてください。自分の手はどこにあるか。後ろに隠してあるだろうか。それとも立ち上がらせるために、差し伸べているか、と。そうすれば、幸せになります。
分かりましたか。いいですか、分かりましたか。分かりませんでしたか。しんとしていますね。
それには、とても大切なのにあまり評価されていない「資質(qualitade)」をはぐくむことが求められます。他者のために時間を割き、耳を傾け、共感し、理解するという・・・資質です。それがあって初めて、自分のこれまでの人生と傷を通して、わたしたちを新たにし、周囲の世界を変える愛に向かって進み出せるのです。
「人のために」時間を割かず、費やさず、時間を浮かせても、結局は多くの雑多なことに時間が奪われ、一日が終わると空虚さで呆然としてしまいます。そのような状態をわたしの国(アルゼンチン)では、吐きそうなほどお腹いっぱいに用事を詰め込む、という言い方をします。
ですから、家族のために時間を取ってください。友人のために時間を取ってください。でもそれだけでなく、神のためにも、祈りと黙想をもって――各自、自分の信仰信条に従って……。
そうするのが難しいときも祈ってください。あきらめてはいけません。かつて、ある思慮深い霊的指導者がいいました。祈りとは基本的に、ただそこに身を置いているということだと。心を落ち着け、神が入ってくるための時間を作り、神に見つめてもらいなさい。神はきっと、あなたを平和で満たしてくださるでしょう。
これはまさに、未希さんが語ったことです。彼女は、競争力、生産性ばかりが注目される慌ただしい社会で、若者がどのように神のために時間を割くことができるかを尋ねました。人間や共同体、あるいは社会全体でさえ、外的に高度に発展しても、内的生活は貧しく、委縮し、熱意も活力も失っていることがよくあります。
その人たちは完成されたロボットのようなもので、非常に完璧に動くことはできますが、心はないのです。残念ながら、夢を見ない若者がたくさんいます。これは大変なことです。若者には夢や神を愛するための心の中のスペースが必要です。すべてにうんざりして、夢を見ることもなく、笑うことも、楽しむこともなくなり、すごいと思ったり、驚いたりする感性を失ってしまうのです。他者との人生を喜べず、ゾンビのように心の鼓動は止まっています。
なぜでしょうか。他者との生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは、幸せになります。ほかの人と「生(生きること)を祝う(celebrar la vida)力」を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。
世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人のなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔のない(anonima)社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。
貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」。
心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪の貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。そうしたら気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、愛されていないと感じることです。
分かりましたか(場内、拍手)。わたしの話はつまらないかな? (場内「No!」の声) もう少しで終わりますからね。(笑い)。
この霊的な貧困との闘いは、わたしたち全員に呼びかけられている挑戦であり、あなたがた若者には特別な役割があります。それはわたしたちの優先事項に、わたしたちの選択に、大幅な変更を要求するからです。もっとも重要なことは、何を手にしたか、これから手にできるかという点にあるのではなく、それ(時間)を「だれと分かち合うか」、という問いの中にあると知ることです。
この問いを問うことを習慣としてください。「何のために」生きているかではなく、「だれのため」に生きているのか。だれと、生を分かち合っている(compartire)のか」。何のために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。
肝心なのは、だれのために生きているのかということです。物も大切ですが、人間は欠けてはならない存在です。人間不在なら、わたしたちは人間らしさを失い、顔も名もない存在になり、結局はただの物、いくら最高級でも、ただの物でしかなくなります。いくら最高の品でも、それは単なる物です。一方、わたしたちは人間(personas)なのです。
シラ書には、「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ」(シラ6・14)とあります。だからこそ、次のように問うことが大事なのです。わたしは「だれのために」あるのか。あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在して欲しいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんのよいもの、傾向、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためなのです」(使徒的勧告『キリストは生きている』286)。
他者と共有するため(compartir)、ただ生きるのではなく、生(la vida 生きること)を分かち合うのです。
生を分かち合ってください(compartir
la vida)。
そしてこれこそが、あなたがたがこの世界に差し出すことのできる、すばらしいものなのです。若者は、この世界に「何かを与える能力」を持っています。社会における友情、あなたがたの間の友情の証し人となってください。できるはずです。出会いの文化、受容、きょうだい愛(fraternidad)、そして一人ひとりの(cada
persona)尊厳、とりわけ、愛され理解されることを必要としている人の尊厳に対する敬意に基づいた、未来への希望を持つこと。そうすれば、攻撃したり蔑んだりする必要性を感じることなく、他者のもつ豊かさを評価するようになるのです。
わたしたちの助けとなる考え方があります。肉体的に生存するためには、呼吸が必要です。それは、意識せず、自動的にしている行為です。
本当の意味で充実して生きるには、霊的な呼吸を学ぶ必要があります。祈りと黙想(meditacion)を通して、心の奥深い場所で「わたしたちに語りかける神」に耳を傾けること。また、愛と奉仕のわざによって他者にかかわる外的な動きも必要です。この内的外的な動きによって、神はわたしたちを愛しているだけでなく、わたしたち一人ひとりに使命を、唯一無二の召命を託しているのだと気づきます。そしてその召命は、他者に、それも具体的な人々に自分を差し出すことにより、よりはっきりと見えてくるのです。
雅子さんは、自身の学生時代と教師としての経験から、そうしたことについて話してくれました。若者が、自分のよさや勇気に気づくには、どのような助けを与えたらよいかを尋ねてくれました。もう一度繰り返しますが、成長するには、自分らしさ、自分のよさ、自分の内面の美しさを発見するには、鏡を見てもしかたありません。さまざまな発明がありますが、ありがたいことに、まだ魂のセルフィー(自撮り)はできません。幸せになるには、ほかの人の助けが必要です。写真をだれかに撮ってもらわないといけません。つまり、自分の中にこもらずに、ほかの人、とくに、もっとも困窮する人のもとへと出向くことです(同171参照)。
皆さんに一ついいたいことがあります。自分のことを見過ぎないでください。鏡ばかりを見ないでください。見過ぎて、鏡が割れてしまう危険がありますからね! もうすぐ話は終わります。もう時間ですね。さて、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。
かつて、賢い教師がいって言っていました。知恵を得るための鍵は、正しい答えを得ることよりも、正しい問いを見いだすことだと。それぞれで考えてください。「答えられるだろうか。ちゃんと答えられるだろうか。正解を答えられるだろうか」。はい、とこたえる人がいれば、それは幸せなことです。でも、また別の問いを考えてみてください。「正しい質問をすることができるだろうか。人生について、自分自身について、他者について、神について、そのような問いへ深入りしていく心があるだろうか」と。
単に問いに正しくこたえられたなら、試験は合格です。でも、「正しい質問」ができなければ、人生の試験には合格しません。誰でもが雅子さんのように教師をしているわけではありませんが、皆さんにも、よい問いをもって、自分自身に問いかけてほしいと思います。自らに問うだけでなく、ほかの人が、人生の意味や、次世代のためによりよい未来をどのように築けるかについて、自らに問いかけることが出来るよう、手助けしてあげてください。
愛する若者の皆さん、熱心に聞いてくれてありがとう! 忍耐強く聞いて下さったことに感謝します。皆さんがわたしに捧げてくれたこの時間のすべてに、そして皆さんの人生の一部を分かち合ってくださったことに、感謝します。
皆さんの夢に蓋をしたり、ぼやかしたりしないで下さい。壮大な夢を見ましょう。広い地平を目指すことに熱意を燃やしましょう。世界はそのような若者を必要としています。居眠りしている者ではありません。喜んで自らを捧げる者、大きな希望を持っている者、すべての人の家を築く熱意を持つ者を必要としています。
みなさんのために祈ると約束します。
みなさんが霊的な知恵をはぐくめますように。正しい問いをできますように。(自分だけを見つめる)鏡を忘れることができますように。他者に目を向けることができますように。
みなさんのために祈り続けます。みなさんと、みなさんのご家族とご友人に、豊かな幸せを願いつつ、わたしの祝福を送ります。
どうかわたしのためにも祈ってください。そして、よろしかったらわたしにもよい質問を投げかけて下さるよう、心からお願いします。
本当にありがとう。
参考サイト