2020年2月18日火曜日

教皇フランシスコ日本訪問を追って  (8 B)


教皇フランシスコ日本訪問を追って  (8 B
 
20191125日、東京

(8 B)  2019/11/25 /

16:00  ミサ  東京ドームにて

袴田巌さんも参列






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https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87%E3%80%81%E8%A2%B4%E7%94%B0%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E6%8E%A5%E8%A7%A6%E5%B8%8C%E6%9C%9B-%E6%9D%A5%E6%97%A5%E4%B8%AD%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%81%A7%E3%80%81%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E3%81%9B%E3%81%9A/ar-BBYtyC2



ローマ教皇、袴田さんと接触希望 来日中ミサで、実現せず
共同通信社

 11月下旬に来日したローマ教皇フランシスコ(83)が東京ドームでのミサの中で、静岡県一家4人強盗殺人事件で死刑が確定し、冤罪を訴え再審請求中の袴田巌さん(83)との接触を希望していたことが30日、カトリック関係者への取材で分かった。教皇が参列者と交流する機会に袴田さんに近寄って顔を合わせる予定だったが、会場で姿を確認できず、実現しなかったという。
 教皇は死刑廃止を訴えており、実現すれば死刑制度を巡る議論が深まるとの期待があった。関係者によると、ミサの前にバチカン関係者が教皇に袴田さんの情報を伝え、教皇も接触に強い意欲を示していた。
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ローマ教皇ミサ、東京ドームに5万人 袴田さん、救い見つめ (東京新聞)

袴田さん 拘置所で洗礼、招待受け参列

 1966年の静岡県の一家四人強盗殺人事件で死刑が確定し、静岡地裁の再審開始決定により釈放されている袴田巌(いわお)さん(83)が 25日、東京ドームであったローマ教皇フランシスコのミサに参列し、祈りをささげた。袴田さんは拘置所で洗礼を受けたキリスト教徒で、ミサに招待されていた。死刑反対の立場を取る教皇に直接支援を訴えることはかなわなかったが、立ち上がって教皇の姿を見つめていた。 (小野沢健太)
 キリスト教徒らがドームを埋め尽くした大規模なミサで、袴田さんの席は前列に用意された。かねて弁護団や支援者が面会を求める手紙を教皇宛てに送っていたところ、ローマ教皇庁の報道官が今月15日、袴田さんがミサに招待されていることを公表。日本のカトリック司教協議会が20日、招待状を届けた。
 黒のスーツに蝶(ちょう)ネクタイ姿で参列した袴田さん。ミサ後に東京・霞が関であった記者会見では発言しなかったが、一緒に参列した姉の秀子さん(86)は「巌は教皇の話を穏やかに聞いていました。教皇が近くに来たときは立ち上がったりしてね」と振り返った。
 静岡県の旧清水市(現静岡市清水区)で一家四人を殺害したなどとして、80年に最高裁で死刑が確定した袴田さん。
 確定直前、東京拘置所から秀子さんに送った手紙で自身の罪を「でっちあげ」と記し、「死刑そのものが怖いのではなく、怖いと恐怖する心がたまらなく恐ろしいのだ」と吐露していた。
 袴田さんが拘置所でキリスト教の洗礼を受けたのは、その4年後。獄中日記などをまとめた書簡集「主よ、いつまでですか」の中で、洗礼について「唯一最大の栄光の絶頂であったのだ」と喜びをつづっている。
 袴田さんは2014年、静岡地裁の再審開始決定を受けて釈放されたが、長年の拘束による拘禁症の影響からか、秀子さんらに「自分はローマ法王だ」と言うこともある。
 袴田さんは釈放後の18年、東京高裁に再審開始決定を取り消されたものの、死刑と拘置の執行停止は維持された。今は最高裁の特別抗告審の結果を待つ身だ。
 会見で秀子さんは、キリスト教徒らに「それぞれのできる範囲で支援していただければ」と期待。同席した弁護団の西嶋勝彦弁護士は「教皇は袴田さんに何か言葉を掛けたかったと思うが、何万人も参列していたので特別な機会は設けられなかったのだろう」と残念がった上で、続けた。「ミサに招待されたことは世界中に発信される。日本の司法界は、その影響を無視して事を進めることはできないはずだ」


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袴田さんも出席


 京ドームでのミサには、死刑が確定して再審請求中の袴田巌さん83)が姉の秀子さん(86)とともに出席した。
 袴田さんは、ちょうネクタイに黒いハットをかぶって参加した。秀子さんによると、袴田さんはアリーナの前から6列目に着席。教皇が乗った車が近づいてきた時に秀子さんがハットを取ると、袴田さんは教皇をじっと見つめていたという。対面する機会は無かったが、ミサ終了まで旗を振るなどして過ごした。


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袴田さんミサ招待 教皇、にじむ「死刑廃止」 面会は実現せず

 フランシスコ・ローマ教皇が25日に東京ドームで執り行ったミサに、1966年の「袴田事件」で死刑が確定し、静岡地裁の再審開始決定で釈放された袴田巌元被告(83)が招待され、参列した。袴田さん側が求めた面会はかなわなかったが、教皇の死刑廃止への思いがにじんだとの指摘もある。
 午後4時から東京都文京区の東京ドームで行われたミサには、信徒ら約5万人が集まった。2階席まで埋め尽くされる中、袴田さんと姉の秀子さん(86)には、教皇が間近に見える前列の席が用意され、2人は黒の服を身にまとって参列。教皇が会場を車で周回した際、袴田さんは立ち上がってその姿を見ていた。
 袴田さんは1966年に逮捕され、84年に死刑囚として収容されていた東京拘置所で洗礼を受けた。2014年の再審開始決定で釈放されたが、東京高裁は18年、地裁決定を取り消し、弁護側が最高裁に特別抗告している。現在は浜松市で秀子さんと2人で暮らすが、死刑囚でありながら社会で生活するという不安定な日常を送っている。長期収容による拘禁症の影響などで会話がかみ合わないという。

2020年2月14日金曜日

教皇フランシスコ日本訪問を追って  (8) 



教皇フランシスコ日本訪問を追って  (8) 
20191125日、東京

(8)  2019/11/25

16:00  ミサ  東京ドームにて

教皇ミサ/Holy Mass(東京ドーム/Tokyo Dome): 生配信URLhttps://youtu.be/j_fLDeW2p98

解説付き コメンテイター2人 LIVE】教皇ミサ(日本語コメンタリー版)Holy Mass/Tokyo Dome【公式】

ローマ教皇 38年ぶり来日、東京ドームで5万人ミサ(20191125日) (字幕なし)


 










 

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教皇フランシスコのホミリア(説教)
(諸文書)

今聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。「山上の説教」と呼ばれているもので、わたしたちが歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。神はモーセに、「わたしのもとへ登りなさい」(出エジプト241参照)と仰せになりました。その山頂には、主意主義によっても、「出世主義」によっても到達できません。分かれ道において師なるかたに、注意深く、忍耐をもって丁寧に聞くことによってのみ、山頂に到達できるのです。山頂は平らになり、周りがすべて見渡せるようになり、そこはたえず新たな展望を、御父のいつくしみ(compasión)を中心とする展望を与えてくれるのです。
イエスにこそ、人間とは何かの極みがあり、わたしたちの考えをことごとく凌駕する充満に至る道が示されています。イエスにおいて、神に愛されている子どもの自由を味わう新しいのちを見いだすのです。
しかし、わたしたちはこの道において、子としての自由が窒息し弱まるときがあることを知っています。
それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、心を表面的ではかないことがらへと向かうよう押しやるのです。何でも生産でき、すべてを支配でき、すべてを操れると思い込む熱狂が、どれほど心を抑圧し、縛りつけることでしょう。
ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。
力づける香油のごとく、主のことばが鳴り響きます。思い煩うことなく、信頼しなさい、と。主は三度にわたって繰り返して仰せになります。自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6253134参照)。これは、周りで起きていることに関心をもつなといっているのでも、自分の務めや日々の責任に対していい加減でいなさいといっているのでもありません。それよりも、意味のあるより広い展望に心を開くことを優先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさいという励ましなのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ633)。
主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。世俗の姿勢はこの世での己の利益や利潤のみを追い求めます。利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展をはばむのです。
孤立し、閉ざされ、息ができずにいるわたしに抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち、これしかありません(「一般謁見講話(2019213日)」参照)。主のこの招きは、わたしたちに次のことを思い出させてくれます。「必要なのは、『わたしたちの現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだということを、歓喜のうちに認めることです。それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。
それゆえ、第一朗読において、聖書はわたしたちに思い起こさせます。いのちと美に満ちているこの世界は、何よりも、わたしたちに先立って存在される創造主からのすばらしい贈り物であることを。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創世記131)。与えられた美と善(bondad)は、それを分かち合い(compartir)、他者に差し出すためのものです。わたしたちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの創造的な夢(mismo sueños Creador)にあずかる者なのです。
「わたしたちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然とのかかわりをも真に気遣うことは、友愛(fraternidad きょうだい愛)、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。
この現実を前に、キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り(proteger toda la vida)、あかしするよう招かれています。知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さ(generosidad) とすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です。「そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさ(insignificancia)をもすべてそのまま」(「ワールドユースデーパナマ大会の前晩の祈りでの講話(2019126日」)引き受けるのです。
わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています。つまり、「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。
イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされたのです」(同)。
いのちの福音(Evangelio de la vida)を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみ(compasión del Padre)という基準です。
善意あるすべての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、絶えざる協力と対話を重ねつつ、主に結ばれるならば、わたしたちは、すべてのいのち(toda la vida)を、よりいっそう守り世話する、社会の預言的パン種となれるでしょう。
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感謝のことば
タルチジオ・菊地功 東京大司教
2:06~)
 フランシスコ教皇様、この度の来日に対し、日本の教会共同体を代表して、また当地、東京の司教として、心からの感謝を申し上げます。ありがとうございます。
この度の教皇様来日にあたり、「すべてのいのちを守るため」を、司教団はテーマとして選びました。『ラウダート・シ』に記された「被造物とともにささげるキリスト者の祈り」にあるように、わたしたちは、世界を守り、それぞれのものの価値を見いだし、美と愛と平和の種をまくために働く道具となることが、今の日本にとって大切なことだと思いました。
 わたしたちの共通の家である地球は蹂躙され、うめき声をあげています。教皇様は、この嘆き声に耳を傾け、地球を保全し、未来の世代のためにその美しさを守るように、世界の人々に呼びかけておられます。
 今日の日本は、環境、経済、近隣諸国との共存の関係、大震災からの復興、そして原発事故の影響など、さまざまなレベルで人間のいのちにかかわる問題に直面しています。人間のいのちの尊厳を踏みにじるような事件も少なからず発生し、さまざまな要因から、孤独や孤立のうちに誰からも理解されず、助けを得ることもなく、いのちの危機に瀕している方も少なくありません。
 フランシスコ教皇様、この度の日本訪問で、教皇様は日本に住む多くの人々に、神のいやしと愛と希望を示してくださいました。
 わたしたちは、小さな共同体ですが、教皇様の励ましをいただき、アジアの兄弟姉妹と手を取り合い、歩みをともにしながら、神から与えられたいのちの尊厳を守り、いつくしみの神のいやしと、希望の福音を宣べ伝えていきます。
 教皇様、あなたの力強いことばと模範を通して、わたしたちを、すべてのいのちに仕える奉仕者になるようお導きくださり、感謝申し上げます。
 最後に、もう一度、教皇様、日本を訪れていただき、ありがとうございました。

2020年2月13日木曜日

教皇フランシスコ日本訪問を追って  (6) (7) 



教皇フランシスコ日本訪問を追って  (6) (7) 

20191125日、東京

(6) 2019/11/25B
天皇陛下との会見  皇居にて
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(7)  2019/11/25C
青年との集い
(東京カテドラル聖マリア大聖堂)
2019
1125 11:45

青年との集い/ Meeting with Young People【公式】

1125日(月)のライブ配信】 ・青年との集い/Meeting with Young People(東京カテドラル聖マリア大聖堂/the Cathedral of Holy Mary): 生配信URLhttps://youtu.be/uUkEI2iCi7U

来日3日目の25日、ローマ教皇フランシスコは、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行なわれた「青年との集い」に参加した。大聖堂には約900人が集まり、教皇は若者3人の代表者によるスピーチの後、講話を語った。青年を代表してスピーチしたのは、発展途上国支援団体職員の小林未希さん、中学校教員の工藤雅子さん、フィリピン出身のカチュエラ・レオナルドさんの3人。

33:15    小林未希(みき)さんの証言 「カトリック青年として生活すること」
38:34      工藤雅子さん(中学校教員、保健体育)の証言 「若者として生きること」(生徒たちについて)43:02       カチュエラ・レオナルドさん「外国籍を持って生活することの喜びや悲しみ、苦しみ」





教皇フランシスコのスピーチ
54:32~



愛する若者の皆さん。
ここに集まってくれてありがとう。皆さんのパワーと熱意を見て、聞いて、喜びと希望がもてました。本当にありがとう。そしてレオナルドさん、未希さん、雅子さん、証言に感謝します。あなたたちがしてくれたように、心の中のものを分かち合うのは、大変勇気がいることです。
三人の声に、ここにいる多くの仲間も共感したはずです。ありがとう。皆さんの中には、ほかの国から来た若者もいるでしょう。中には、避難してきたかたもいることでしょう。さあ、わたしたちが望む未来の社会を、一緒に作り上げることを学んでいきましょう。
皆さんを見ると、今日の日本に生きる若者は、文化的および宗教的に多様なことが分かります。
それこそが、皆さんの世代が未来にも手渡せる美しさです。皆さんの間にある友情、この場にいる一人ひとりの存在が、未来はモノトーンではなく、各人による多種多様な貢献によって実現するものだということを、すべての人に思い起こさせてくれます。
わたしたち人類家族にとって、皆が「同じようになる」のではなく、調和と平和のうちに共存すべきだと学ぶことが、どれほど必要でしょうか。
わたしたちは、工場の大量生産で作られたのではないのです。一人ひとり、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、異なるのです。分かち合うべき自分の物語を、だれもがもっているのです。
翻訳されていないことを話すときは、彼(レンゾ神父)が訳してくれます。いいですか?
兄弟愛(Fraternidad)の内に成長していかなければなりません。、ほかの人が抱える問題に関心を寄せ、異なる経験や見方を尊重すること、それがどれほど必要でしょうか。この集いは一つの祭り(Fiesta, フィエスタ)です。なぜなら「出会いの文化」は可能だと宣言しているからです。それはユートピア(Utopia, 理想郷)ではありません。そしてあなたたち若者には、それを実現していくとくべつな感性があると思います。
三人が投げかけてくれた質問に、胸を揺さぶられました。皆さんの具体的な体験と、将来への希望と夢を映し出しているからです。
レオナルドさん、あなたが苦しんだいじめと差別の経験を、分かち合ってくれてありがとう。多くの若者が、あなたのように自らの体験について勇気をもって話すことの大切さに気づくでしょう。
わたしの時代、わたしが若かったころは、レオナルドさんが話したようなことは決して口にしませんでした(人と分かち合うようなことはしませんでした)。
学校でのいじめが本当に残酷なのは、自分自身を受け入れ、人生の新しい挑戦に立ち向かうための力をいちばん必要とするときに、精神と自信(自分を信じること)が傷つけられるからです。いじめの被害者が、「いじめやすい」標的なのだと自分を責めることも珍しくありません。砕かれた自分は弱いのだ、価値がないのだ・・・そんな気持ちになり、とてつもなくつらい状況に追い込まれてしまいます。「こんな自分じゃなかったなら・・・」と。
けれども実は反対なのです。攻撃する側こそ、本当は弱虫なのです。他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できると考えるからです。自分とは違うとみなすや攻撃します。違いは自分にとって脅威だと思うからです。実は、いじめる人たち(accusatores 非難を浴びせる人たち)こそがおびえていて、見せかけの強さで装うのです。
これについて――よく聞いてください――ほかの人を傷つけようとしたり、ほかの人をいじめたり、又そう見えたりしたなら、その人こそ臆病者なのです。一方いじめられる側は弱い人間ではありません。
弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。自分は立派な存在なのだと実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。
先ほど(彼の証言の後にことばをかけた際)、レオナルドさんには「デブといわれたら、痩せて元気そうじゃない君のほうがカッコ悪いよ」と言ってやりなさいと教えておきました。
わたしたち皆で、この「いじめ(bullismo 強がり、弱者攻撃)」の文化に対して力を合わせ、皆で力を合わせ、はっきりという必要があります。もうやめよう(Basta)! これは疫病です。そしてこの疫病に対して使える最良の薬は、皆さん自身です。学校や大人がこの悲劇を防ぐために尽くす手立てだけでは足りません。皆さんの間で、友人どうしで、仲間どうしで、いっしょに No!」、「いじめは絶対だめ」、ほかの人を攻撃するのは悪いことだ、と言わなければいけません。
クラスメイトや友人の間で共に「立ち上がる」こと以上に、いじめに対抗する強力な武器はありません。そして言うのです。「あなたがしていることは、『いじめ』は、とてもひどいこと(grave)だよ」と。
 「いじめ」る人は、怖れている人です。恐れはつねに善の敵です。それゆえ、愛と平和の敵です。
すべての偉大な宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容(tolerancia)を教え、調和を教え、いつくしみ(misericordia)を教えます。真の宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。
わたしたちキリスト者は、弟子たちに、恐れることはないといわれるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。わたしたちが神とともにおり、神とともに兄弟姉妹を愛するならば、その愛は恐れ(timor)を締め出すからです(一ヨハネ418参照)
レオナルドさんが気づかせてくれたように、イエスの生き方を見ることで、わたしたちは慰めを得るはずです。イエスご自身も、侮蔑され、拒絶され、最後には十字架につけられる体験をしたからです。また、よそ者、難民、ほかとは「違う」者であるとは何かを、身をもって味わいました。
【この話はキリスト信者のためにしていますが、他の宗教のみなさんにも一つの宗教的模範として参考になると思います。】
イエスこそ、もっとも「隅に追いやられた人」であり、与えるためのいのちに満ちていた人でした。レオナルドさん、自分の乏(とぼ)しさに目を向けることもできますが、自分が与え、差し出すことのできる「生」を見いだすこともできます。
世界はあなたを必要としている、それを決して忘れないでください。主は、あなたを必要としています。今日、起き上がるのに手を貸してほしいと求めている多くの人に、勇気を与えるために、主はあなたを必要としておられるのです。
人生に役立つことを一つ、皆さんに話したいと思います。人を軽んじ、蔑むとは、上からその人を見下げることです。つまり、自分が上で、相手が下だと。相手を上から下へ見てよい唯一正しい場合は、相手を起き上がらせるために手を貸すときです。
わたしも含め、この中にいるだれかが、だれかを軽んじて見下すなら、その人は情けない人間と言えます。でも、この中のだれかが、手を差し伸べ起き上がらせるために、下にいる人を見るのなら、その人は立派です。だから、だれかを上から下へ見るとき、心に聞いていてください。自分の手はどこにあるか。後ろに隠してあるだろうか。それとも立ち上がらせるために、差し伸べているか、と。そうすれば、幸せになります。
分かりましたか。いいですか、分かりましたか。分かりませんでしたか。しんとしていますね。
それには、とても大切なのにあまり評価されていない「資質(qualitade)」をはぐくむことが求められます。他者のために時間を割き、耳を傾け、共感し、理解するという・・・資質です。それがあって初めて、自分のこれまでの人生と傷を通して、わたしたちを新たにし、周囲の世界を変える愛に向かって進み出せるのです。
「人のために」時間を割かず、費やさず、時間を浮かせても、結局は多くの雑多なことに時間が奪われ、一日が終わると空虚さで呆然としてしまいます。そのような状態をわたしの国(アルゼンチン)では、吐きそうなほどお腹いっぱいに用事を詰め込む、という言い方をします。
ですから、家族のために時間を取ってください。友人のために時間を取ってください。でもそれだけでなく、神のためにも、祈りと黙想をもって――各自、自分の信仰信条に従って……。
そうするのが難しいときも祈ってください。あきらめてはいけません。かつて、ある思慮深い霊的指導者がいいました。祈りとは基本的に、ただそこに身を置いているということだと。心を落ち着け、神が入ってくるための時間を作り、神に見つめてもらいなさい。神はきっと、あなたを平和で満たしてくださるでしょう。
 これはまさに、未希さんが語ったことです。彼女は、競争力、生産性ばかりが注目される慌ただしい社会で、若者がどのように神のために時間を割くことができるかを尋ねました。人間や共同体、あるいは社会全体でさえ、外的に高度に発展しても、内的生活は貧しく、委縮し、熱意も活力も失っていることがよくあります。
その人たちは完成されたロボットのようなもので、非常に完璧に動くことはできますが、心はないのです。残念ながら、夢を見ない若者がたくさんいます。これは大変なことです。若者には夢や神を愛するための心の中のスペースが必要です。すべてにうんざりして、夢を見ることもなく、笑うことも、楽しむこともなくなり、すごいと思ったり、驚いたりする感性を失ってしまうのです。他者との人生を喜べず、ゾンビのように心の鼓動は止まっています。
なぜでしょうか。他者との生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは、幸せになります。ほかの人と「生(生きること)を祝う(celebrar la vida)力」を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。
世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人のなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔のない(anonima)社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。
貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」。
心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪の貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。そうしたら気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、愛されていないと感じることです。
分かりましたか(場内、拍手)。わたしの話はつまらないかな? (場内「No!」の声) もう少しで終わりますからね。(笑い)。
この霊的な貧困との闘いは、わたしたち全員に呼びかけられている挑戦であり、あなたがた若者には特別な役割があります。それはわたしたちの優先事項に、わたしたちの選択に、大幅な変更を要求するからです。もっとも重要なことは、何を手にしたか、これから手にできるかという点にあるのではなく、それ(時間)を「だれと分かち合うか」、という問いの中にあると知ることです。
この問いを問うことを習慣としてください。「何のために」生きているかではなく、「だれのため」に生きているのか。だれと、生を分かち合っている(compartire)のか」。何のために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。
肝心なのは、だれのために生きているのかということです。物も大切ですが、人間は欠けてはならない存在です。人間不在なら、わたしたちは人間らしさを失い、顔も名もない存在になり、結局はただの物、いくら最高級でも、ただの物でしかなくなります。いくら最高の品でも、それは単なる物です。一方、わたしたちは人間(personas)なのです。
シラ書には、「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ」(シラ614)とあります。だからこそ、次のように問うことが大事なのです。わたしは「だれのために」あるのか。あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在して欲しいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんのよいもの、傾向、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためなのです」(使徒的勧告『キリストは生きている』286)。
他者と共有するため(compartir)、ただ生きるのではなく、生(la vida 生きること)を分かち合うのです。
生を分かち合ってください(compartir la vida)。
そしてこれこそが、あなたがたがこの世界に差し出すことのできる、すばらしいものなのです。若者は、この世界に「何かを与える能力」を持っています。社会における友情、あなたがたの間の友情の証し人となってください。できるはずです。出会いの文化、受容、きょうだい愛(fraternidad)、そして一人ひとりの(cada persona)尊厳、とりわけ、愛され理解されることを必要としている人の尊厳に対する敬意に基づいた、未来への希望を持つこと。そうすれば、攻撃したり蔑んだりする必要性を感じることなく、他者のもつ豊かさを評価するようになるのです。
わたしたちの助けとなる考え方があります。肉体的に生存するためには、呼吸が必要です。それは、意識せず、自動的にしている行為です。
本当の意味で充実して生きるには、霊的な呼吸を学ぶ必要があります。祈りと黙想(meditacion)を通して、心の奥深い場所で「わたしたちに語りかける神」に耳を傾けること。また、愛と奉仕のわざによって他者にかかわる外的な動きも必要です。この内的外的な動きによって、神はわたしたちを愛しているだけでなく、わたしたち一人ひとりに使命を、唯一無二の召命を託しているのだと気づきます。そしてその召命は、他者に、それも具体的な人々に自分を差し出すことにより、よりはっきりと見えてくるのです。
雅子さんは、自身の学生時代と教師としての経験から、そうしたことについて話してくれました。若者が、自分のよさや勇気に気づくには、どのような助けを与えたらよいかを尋ねてくれました。もう一度繰り返しますが、成長するには、自分らしさ、自分のよさ、自分の内面の美しさを発見するには、鏡を見てもしかたありません。さまざまな発明がありますが、ありがたいことに、まだ魂のセルフィー(自撮り)はできません。幸せになるには、ほかの人の助けが必要です。写真をだれかに撮ってもらわないといけません。つまり、自分の中にこもらずに、ほかの人、とくに、もっとも困窮する人のもとへと出向くことです(同171参照)。
皆さんに一ついいたいことがあります。自分のことを見過ぎないでください。鏡ばかりを見ないでください。見過ぎて、鏡が割れてしまう危険がありますからね! もうすぐ話は終わります。もう時間ですね。さて、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。
かつて、賢い教師がいって言っていました。知恵を得るための鍵は、正しい答えを得ることよりも、正しい問いを見いだすことだと。それぞれで考えてください。「答えられるだろうか。ちゃんと答えられるだろうか。正解を答えられるだろうか」。はい、とこたえる人がいれば、それは幸せなことです。でも、また別の問いを考えてみてください。「正しい質問をすることができるだろうか。人生について、自分自身について、他者について、神について、そのような問いへ深入りしていく心があるだろうか」と。
単に問いに正しくこたえられたなら、試験は合格です。でも、「正しい質問」ができなければ、人生の試験には合格しません。誰でもが雅子さんのように教師をしているわけではありませんが、皆さんにも、よい問いをもって、自分自身に問いかけてほしいと思います。自らに問うだけでなく、ほかの人が、人生の意味や、次世代のためによりよい未来をどのように築けるかについて、自らに問いかけることが出来るよう、手助けしてあげてください。
愛する若者の皆さん、熱心に聞いてくれてありがとう! 忍耐強く聞いて下さったことに感謝します。皆さんがわたしに捧げてくれたこの時間のすべてに、そして皆さんの人生の一部を分かち合ってくださったことに、感謝します。
皆さんの夢に蓋をしたり、ぼやかしたりしないで下さい。壮大な夢を見ましょう。広い地平を目指すことに熱意を燃やしましょう。世界はそのような若者を必要としています。居眠りしている者ではありません。喜んで自らを捧げる者、大きな希望を持っている者、すべての人の家を築く熱意を持つ者を必要としています。
みなさんのために祈ると約束します。
みなさんが霊的な知恵をはぐくめますように。正しい問いをできますように。(自分だけを見つめる)鏡を忘れることができますように。他者に目を向けることができますように。
みなさんのために祈り続けます。みなさんと、みなさんのご家族とご友人に、豊かな幸せを願いつつ、わたしの祝福を送ります。
どうかわたしのためにも祈ってください。そして、よろしかったらわたしにもよい質問を投げかけて下さるよう、心からお願いします。
本当にありがとう。


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