2010年11月2日火曜日

鉛の時代(Anni di piombo)

1970年代の「鉛の時代」に数多くのテロ行為に関与し、Brigate Rosse(赤い旅団)のリーダーだったジョヴァンニ・センツァーニが28年の服役を終えて刑務所を出た。
1981年、ロベルト・ペーチがBrigate Rosseに誘拐され53日後に殺害されたのは娘のロベルタがまだ母の胎内にいるときだった。ロベルタは出所したセンツァーニになぜ父の殺害に至ったのか会って分からせて欲しいという内容のオープン・レターを送った。ロベルト・ペーチは、Brigate Rosseの仲間を告発し逮捕させた「ペンティート(後悔者)」だった弟パトリツィオ・ペーチの代わりに殺されたというのが当時も今も一般的見方だ。同じくテロによって3歳のときに父ヴァルテルを失い、今は父と同じジャーナリストとして活躍するベネデッタ・トバージは、今回のロベルタ・ペーチの発言に、「イタリアの未来に希望がみえた」と述べている。
イタリアを震撼させた元首相アルド・モーロ暗殺事件は1978年のこと。国家の中枢、秘密警察、CIAの関与があったとされているが、すべてが明らかにならないまま今日に至っている。夫の国葬に参列することを拒絶し、先日95歳で亡くなったアニェーゼ・モーロ夫人は、「テロリストは私たちの背後にいるのではない。私たちの傍らにいる」と述べていた。
マフィアと大物政治家(アンドレオッティ、ベルルスコーニ)の関係が囁かれているイタリアだが、「司法上の真実と歴史的真実は同一ではない」というのが一般市民の醒めた見解だ。しかし権力/暴力の刃に倒れた父をもつ若者たちの報復欲に汚されない真実を求める喘ぎは本物だ。

2010年10月27日水曜日

移民

イタリアに住む外国人の数はこの20年間で10倍に増加した。1990年に50万人だった外国人居住者は、2010年には約500万人。比較的年齢層の低い働き盛りの外国人労働者は、所得税や社会保険料を含む総額110億ユーロを国庫に支払っている。そのお陰でINPS(イタリア社会保険機構)は万年赤字を脱却し、黒字にまわった。移民の数が最も多いのはロンバルディア地方で約100万人。国別にはトップがルーマニア、次いでアルバニア、モロッコ、中国、ウクライナの順になっている。

2010年9月21日火曜日

首都ローマ(Roma Capitale)

2010年9月19日、ローマが首都になってから140周年を記念する祝典が催された。「イタリアの兵士を象徴する」といわれるベルサリエーリ(羽根がたくさん付いた帽子を被り、走って行進する狙撃隊)がファンファーレを鳴らしながらピア門を走り抜けた。2011年1月9日まで、「Il Risorgimento a colori(絵画に見るイタリア統一運動):19世紀のローマ」展も開かれ、美術館や個人コレクションから集めた作品約100点を展示する。

一方、ローマ市(Comune di Roma)が新法で「首都ローマ(Roma Capitale)」となる日が近づいている。この法律により、イタリアの政府機関や各国大使館が集まるローマに、より相応しい機能と経済的基盤が保障されることになる。都市計画、公共事業、建築、交通、文化財、観光、防災などが、国と州(ラツィオ州)の管轄からRoma Capitaleに移譲され、Consiglio Comunale(市議会)はAssemblea Capitolina(首都議会)という名称に変わる。

2010年9月16日木曜日

ヴェネツィア写真展 榎本聖一


サルデーニャ島に10年滞在し、この島の独特な文明に魅せられて撮り続けた写真展(銀座のニコンサロン)に続き、榎本聖一のヴェネツィア写真展が開かれる。1971年の夏、学生時代に初めて訪れたヨーロッパの地。ヴェネツィアに降り立ったときの印象は強烈だった。色鮮やかな建物群、空、それらを抱くかのように漂う海。
今回のヴェネツィア写真展のメインテーマは「Nettezza Urbana街の清掃人」。1949年にミケランジェロ・アントニオーニが世に出した同名のドキュメンタリー映画に思いを馳せた。その他、フェニーチェ歌劇場の楽屋裏から搬出され、小船で倉庫まで運ばれるオペラの大道具や小道具、ゴンドラ、街角で見かけた無残にも悪戯書きされたマリア・カラス展のポスター、文化財修復活動支援企業の垂れ幕で周りを覆われシュールな風情のPonte dei Sospiri(溜め息の橋)、仮面を被る子供、など。

上の写真は、波止場を越えて吹きつける波。望遠レンズを一切使わない榎本はぎりぎりまで近づいて撮った。遠くにはRedentore(贖い主)教会が見える。

榎本聖一写真展 「ヴェネツィア」
2010年10月8日(金)~18日(月)
場所:コニカミノルタギャラリー
(新宿高野ビル4F)
TEL:3225-5001
http://konicaminolta.jp/plaza/
最寄駅:JR新宿駅東口
地下鉄丸の内線新宿駅A7出口

2010年9月15日水曜日

ピーコ・デッラ・ミランドラとポリツィアーノ(2)



                マルシリオ・フィチーノ

     ポリツィアーノとピーコが通ったカレッジのプラトン・アカデミー。

フィレンツェの郊外、カレッジのメディチ家別荘に集うAccademia Platonica(プラトン・アカデミー1460-70年頃)と名づけられたヒューマニストたちのサークルの中心的人物は、人文主義者マルシリオ・フィチーノと若いジョヴァンニ・ピーコだった。1453年のビザンチン帝国崩壊後、亡命者たちによってギリシャ哲学の原書がイタリアに大量にもたらされ、それらのコレクションとイタリア語への翻訳熱(それまではアラビア語からの翻訳が主流)が高まった。フィチーノはコジモ・デ・メディチの依頼を受け、カレッジのヴィラにこもってひたすらギリシャ古典の翻訳に携わり、1462年から68年のあいだにプラトンの全作品を翻訳した。この文化サークルに影響を受けた芸術家には、サンドロ・ボッティチェッリ、アントニオとピエーロ・デル・ポッライオーロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ペルジーノ、ルーカ・シニョレッリなどがいる。

ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラとポリツィアーノの死因



ルネッサンスの申し子、Giovanni Pico della Mirandolaジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ(1463-1494、人文主義者)と彼の友人で詩人のPolizianoポリツィアーノの死が毒殺(大量の砒素の投与)によるものだということが、サン・マルコ修道院の回廊に埋葬された二人の遺体の発掘調査によって明らかになった。殺人犯はロレンツォの息子で、陰険な性格だったピエーロ・デ・メディチかもしれないという憶説もある。
アラビア語、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語などに精通し、カバラ(ユダヤ教神秘主義思想、ヘブライ文字の数秘術)研究に熱中し、自然科学にも素養があり、超人的な暗記力をもっていた(ダンテの神曲を暗記し、逆さに暗誦することもできた)貴族出身の美青年ピーコ・デッラ・ミランドラは、その代表作でルネッサンスのマニフェストともいえる『De hominis dignitate人間の尊厳』を世に出し、ルネッサンスの知恵の一頂点に達した。90の命題からなる「人間の尊厳」では、人間の素晴らしさが高らかに歌われている。「人間よりも素晴らしい存在は見出せない」「人間とは偉大な奇跡」「生きとし生けるもののなかでもっとも幸せでもっとも称賛されるべき存在」と語るピーコにとって、人間こそはその豊かで自由な可能性を駆使し、神に近づくことができる宿命をもった存在であった。

2010年9月10日金曜日

三池監督の3作品がヴェネツィア国際映画祭に登場

第67回ヴェネツィア国際映画祭の9日目、「待ちに待った」と期待されていた三池崇史監督の新作、「ゼブラーマン2:ゼブラシティーの逆襲」が、前夜の「ゼブラーマン1(2004年度作)」に続き、『真夜中の上映』(0:30、大ホール)で紹介された。今回コンペティション部門に参加する同監督の「13人の刺客」を盛り上げるかたちで、「極限的で革新的な天才監督」としてヴェネツィア映画祭ではとくべつ人気の高い三池監督の3作品が同時に上映されることとなった。