2011年6月14日火曜日

「SI (原発反対)」は95~96%

イタリアの国民投票(Referendum)の結果

今回の国民投票では若者が主導権を握り、ウェブを通じて人々に呼びかけました。街の広場には大きなスクリーンが置かれ、集まった群集は、サッカーのワールドカップさながらの熱気を帯びて選挙の結果を見守りました。
「政党の旗を持ってきてはいけない」という呼びかけがあり、広場は普段着姿の「普通の人々」で埋め尽くされました。
「SI’(原発反対、など4項目)」が勝利することが分かると、みな躍り上がって喜び、ダンスし、乾杯の杯が交わされました。今回は国民投票が有効となるためのQuorum(投票者数)50%を大きく超える57%が投票所に足を運びましたが、これは15年来のことでした。

12日19:00の国営テレビTG3がインタビューした人々の声です。
若者「みんなの権利は少数の人間の利益より大切なんだ」
赤ちゃんを抱いたお母さん「庶民の勝利です。とうとうこの日がやって来ました!」

2011年6月9日木曜日

国民投票に関するイタリアの報道

イタリア国営放送TG3(テレジョルナーレ3) 6月8日19:00の放送から。

TG3のインタビューに、原発容認派の核物理学者レナート・アンジェロ・リッチ氏は、「現在イタリアは、原子力発電を行なっているフランス、スイス、スロヴェニア等の諸外国に総電力の13~14%を依存しており、このような状況下で再生可能エネルギーにシフトすることは不可能です」と語っています。一方、脱原発を提唱するヴィンチェンツォ・バルツァーニ氏(元ボローニャ大学教授)は次のように答えています。「核エネルギーは危険なだけではなく、非経済的です。イタリアには存在しないウラニウムを輸入するわけですから、原子力発電でのエネルギー自立は成り立たないのです。猛毒な核廃棄物は廃炉になった後も保存し続けなければなりません。それは未来に対する危険な賭けです。私たちの後につづく世代に、これを『遺産』として残すなどということは倫理的に許されることではありません。もし未来の世代が今回の国民投票に参加できるとしたら、彼らは『SÌ (原発建設反対)』と投票するでしょう」。

2011年6月7日火曜日

脱原発国民投票(Referendum)

来たる2011年6月12日(日)(8.00~22.00)と13日(月)(7.00~15.00)に、イタリアでは脱原発の意志を国民に問うレフェレンドゥム(国民投票)が行なわれます。「SÌ」に投票した有権者は「イタリアでは将来原子力発電所を建設しない」意志を表明し、「NO」に票を入れた者は「将来的にイタリアで原発を建設する可能性を残す現行の法律のままでよい」という意志を表明します。有権者の50%+1が参加した場合にのみ国民投票は有効とされるため、その日に「海に行かないように!」とか、「参加した人には1ドリンクサービスあり」とか、無関心層を引き込むキャンペーンも今イタリアでは活発化しています。

2011年6月1日水曜日

「中央権力」とファルコーネ判事の暗殺

1992年5月23日、17時58分、高速道路に埋められたトリット(高性能爆薬)が遠隔操作で爆発し、マフィアと真正面から戦ってきたファルコーネ判事、妻、3人の護衛官がいのちを失った。
この「遠い昔から予言されていた悲劇」に至る道に目をやるとすれば、少なくとも1986年に遡らなければならない。イタリア史上はじめてとなる、マフィア全体を相手にしたMAXI裁判が始まり、翌年1987年12月16日、当時のマフィア組織を根絶させるに充分な「模範的な」判決が下された。マフィアの19人の親分全員に無期懲役、300人を超えるマフィア組員が有罪となった。
(注:’80年代の「マフィア戦争」では、警官、裁判官、弁護士等、マフィアにとって邪魔になる人々が次々と殺害され、その数は4000人を超えていた)

元親分トンマーゾ・ブッシェッタの改心による供述をもとに、ファルコーネ判事は危険を知りつつも、敵陣の中でただ一人戦うかのような努力でこの裁判のために証拠・証言を積み重ねていった。誹謗中傷もあえて身に受けた。彼は言っていた。「隠れた中央権力(Centri occulti di potere )がわたしを爆弾でぶっ飛ばすだろうな・・・」。
「シチリアの春」と呼ばれ、「市民がわたしたちを熱狂的に応援してくれているようだ」とファルコーネにも言わせた、マフィアに対しての大勝利の後、早くも1988年に、竜の尾はファルコーネを襲った。ファルコーネ判事こそパレルモの「予審局長」に選出されることが望まれていたのに、CSM(最高司法府)は「多数決で」他者(アントニーノ・メーリ)を局長に選んだ。それは、あたかもファルコーネに対する死刑宣告でもあった。

以前から、マフィアと「隠れた中央権力」の間には、公けに口に出来ない共生システムがあるのではないかという疑惑が持たれていた。
「麻薬の売買は形跡を残さないが、金銭の動きは形跡を残す」という確信のもと、スイスでの調査も率先して実施していたファルコーネに対して、当時の法務長官ピッツィッロはこう言ってのけた。「シチリアの経済を破滅に追い込むだろう」。

改心者トンマーゾ・ブッシェッタは予言していた。「まずは彼のイメージを、次にその肉体を破壊するだろう」。まさしくそのシナリオ通り、1989年にはファルコーネを告発する匿名の手紙がたくさん届き、各面からの誹謗中傷は後を絶たなかった。
1989年6月20日、パレルモ郊外の海辺の町ダウラでスイスの司法関係者と会っていたファルコーネに対するダイナマイト暗殺未遂事件が起きた。これにより「隠れた中央権力」はマフィアに「指示する」こともできるようになっていたことが明らかになった。

1992年3月12日、DC(キリスト教民主党)のEU議会議員、首相経験者アンドレオッティ派でマフィアと「隠れた中央権力」のバランスを取っていたとされるサルヴォ・リーマが暗殺された。これは、新しいコーサ・ノストラ(マフィアの別名)からの宣戦布告でもあった。

誰かが、マフィアと隠れた中央権力との密接な関係をファルコーネが見つけ出すのではないかと恐れていた。それが1992年の状態だった。そして1989年に未遂で終わった暗殺を完遂させた。

2009年、「カパーチの虐殺」の司法調査が再開された。